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仏壇の開眼供養【浄土真宗】の4つのポイント 解説


仏壇の開眼供養【浄土真宗】の4つのポイント 解説

仏壇の開眼供養【浄土真宗】ポイント①

お仏壇を購入したり新調する場合は、初めに魂入れと呼ばれる開眼供養が必要です。

魂を入れることにより始めて特別な意味を持ちますから、逆にいえば儀式を行わないとただの工芸品や置物に留まります。

開眼供養は宗派によって考えが異なりますが、特別な儀式で重要性が高いのは共通したポイントです。

ただ、浄土真宗では開眼供養を魂入れとは呼ばず、入仏式や御移徙と読んでいます。

入仏式や御移徙は魂入れに代わる儀式ですが、これは浄土真宗において、ご本尊に魂を込める概念のないのが理由です。

浄土真宗の入仏式・御移徙は、仏様にお仏壇へと移って頂くという意味合いを持っています。

お仏壇の購入の他に、お墓の建立の際にも、浄土真宗では入仏式・御移徙が行なわれます。

移動や修理、修繕の際にも、他の宗派で言うところの魂抜き・お性根抜きをしてから、再び開眼供養を行います。

お墓に関しましては法名を刻む時にも執り行うので、最初だけでなく何回も経験することになります。

他の宗派とは捉え方、考えが異なりますから、そこが戸惑うところではありますが、しかし違いを納得したり受け入れることが大切です。

教えを大切に守ったり、故人のことを思う気持ちは宗派を問わず同じですから、決して極端に特殊ではなく、むしろ発展した仏教の1つとして納得できるはずです。

入仏式、御移徙は慶事ですから、おめでたい気持ちで臨んだり、前向きに執り行うことが大事です。

誰かが亡くなった後だと、気持ちが落ち込んだり悲しみが押し寄せてきますが、気持ちに整理をつける意味でも慶事に参加するのは重要なことです。

元々、葬儀の意味すら死者の供養ではないという教えの宗派ですから、悲しみに暮れたり囚われるのは間違いだといえるでしょう。

逆に1つずつ儀式を行うことは、宗旨が目指すところの即身成仏に近づく一歩となります。

その点が数ある宗派の中でも少し変わっていますが、同時に他にはない独自の魅力的なところで、お仏壇の儀式にも通じます。

仏壇の開眼供養【浄土真宗】ポイント②

浄土真宗の内、西本願寺の本願寺派では、入仏式御礼の熨斗袋と御布施を用意して、お寺さんに渡すことになります。

複数の宗派がある中で本願寺派も同じく、お仏壇に魂を込める概念はなく、開眼供養という言葉は使わず入仏式か御移徙といいます。

御遷仏法要という言葉もありますが、指しているものは共通なのでどれも同じ意味です。

入仏式は新しく仏様をお迎えする時に、慶事としておめでたい紅白の熨斗袋を使います。

この熨斗袋は特別で入手が難しいですから、必要な時は菩提寺に相談するのが良いでしょう。

一方、東本願寺派の大谷派も本願寺派と同様に、お仏壇やご本尊に魂は込めないので、開眼供養ではなく入仏式や御移徙です。

入仏式御礼の代わりに、御移徙御礼と熨斗袋を用意するのが大谷派の特徴ですが、やはり御遷仏法要を含めて入仏式も御移徙も意味は同じです。

他の宗派と比べれば、これらは似ているところが多く差は小さいですし共通点もありますが、宗派は違うので小さな差を理解することが必要です。

浄土真宗の開眼供養に相当する儀式で重要なのは、香典袋に御霊前ではなく御仏前と書くことです。

仏教では、四十九日を経て故人は仏様になると考えられていますが、浄土真宗は亡くなった段階で既に仏様という考えを持っています。

つまり御霊前と書くのは間違いですし、相手によっては失礼と捉えられることもあるので要注意です。

御霊前の表記は本願寺派も大谷派のも同様ですから、そこは共通と覚えておけば大丈夫です。

開眼供養は、宗派によっては弔事と捉えられることもありますが、浄土真宗では慶事として取り扱われます。

理由はやはり宗旨がポジティブな傾向で、即身成仏で生きながら悟りを開けると教えられていることにあります。

亡くなってから仏様になるのではなく肉体が残ったままですから、門徒が前向きに教えを守っているのも頷けます。

お仏壇の捉え方からして他宗派とは違うわけですが、その違いに理解を深めるポイントがあるといえます。

仏壇の開眼供養【浄土真宗】ポイント③

仏教のことを良く知らない人だと、浄土真宗も他の宗派が執り行うお仏壇の儀式も、一様に開眼供養を執り行っているように見えます。

ところが、浄土真宗だと故人は仏様ですから、魂入れというのは根本から違いますし、お仏壇に視線を向ける時に見えるものも違ってくるわけです。

他の宗派が開眼供養で魂を入れる場合、浄土真宗は入仏式や御移徙で法要を執り行い、慶事として喜びを確認していることになります。

仏教は奥深く、考え方が様々なので正確に理解するのは難しいですが、仏様との縁を感じたり、喜びや感謝を捧げるイメージで捉えることができます。

一般的な開眼供養だと、お仏壇にご本尊を置いて魂を入れたり、目を開くことで霊験を宿します。

ネガティブなイメージではありませんが、厳かに派手さとは逆のイメージで執り行う傾向が強いと思われます。

入仏式・御移徙も派手ではないですが、同じような緊張感や取り組む姿勢はあるとしても、他の宗派とは捉え方や感じ方が違ってきます。

言葉にしたり文章で表現するのは難しいですが、お仏壇といっても概念から見え方まで、何もかも違いがあることを意味します。

入仏式・御移徙に参列する時、多くの人は開眼供養と同じ感覚で臨みがちです。

確かに信仰する宗派以外のことは詳しく分からないものですし、そう納得することもできるでしょう。

しかし、使う言葉が違うということは、捉え方が異なる証拠ですから、言葉選びを間違えないように気をつけたいところです。

それは逆の立場でも同様ですから、完全にお互いの宗旨を理解することはできないとしても、尊重して合わせることが肝心です。

ちなみに、浄土真宗は位牌を用いないので、ここも宗派の違いに見られる特徴の1つです。

亡くなった死者の魂を祀るのではなく、ご本尊を祀るという考え方に近いですから、仏具1つ取っても違いがあって面白いです。

ただし、位牌を置かないのは絶対とはいえず、地域や菩提寺によっては置いても良いとされます。

仏壇の開眼供養【浄土真宗】ポイント④

開眼供養がないことからして他と違う浄土真宗は、根底に南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行けるという教えがあります。

仏教の殆どは祈って救われる教えが多いですが、浄土真宗だと阿弥陀様自身が人々を救いたいと思っているのがポイントです。

即身成仏の考えもこれに通じるもので、お仏壇を設置する際の入仏式・御移徙もまた、独自の考え方や教えからきています。

僧侶を住職と呼ばないこと、お線香は立てず横に寝かせて置く点も独特です。

僧侶のことはご院家と呼び、お寺に住まわせてもらっている人という意味になります。

お水などの飲み物を置かないのも、浄土真宗ならではのお仏壇の扱い方です。

お水やお茶をお供えするのは、故人の喉が渇くと考えるからですから、極楽浄土には八功徳水があるので心配無用です。

浄土宗と名前が似ている浄土真宗ですが、前者の自力念仏と後者の自力念仏で大きく異なります。

南無阿弥陀仏を唱える点が共通ではあるものの、前者は唱えれば誰でも死後に浄土で仏になれると説きます。

対する後者は、南無阿弥陀仏の念仏で極楽浄土に行けることが約束されるという教えです。

即身成仏は極楽浄土行きの約束に含まれるので、もはや仏になれるかどうかはあまり重要ではないです。

開眼供養との差や入仏式と御移徙の理解が深まると、宗派の違いによる宗旨の違いが分かりますし、お仏壇との向き合い方や考え方が見えてきます。

2つの宗派は元は同じルーツを持つので、お仏壇の中心に阿弥陀如来の掛け軸を設置するのは共通です。

しかし開祖や宗祖が異なりますから、前者は中央左に法然上人、後者は中央左に親鸞聖人の掛け軸を設けることになります。

右側はそれぞれ善導大師と蓮如上人なので、ルーツは共通でも独自に発展したことが窺えます。

開眼供養は執り行わない、魂や仏様の捉え方が違うといった似た部分はありますが、名前が似ていても考え方はかなり違うわけです。

法要の案内を受けて参列する側の場合、違いが分からないと間違えて恥を掻くことになり得るので、信仰する宗派が異なるなら尚のこと知ることが必要です。

仏壇の開眼供養【浄土真宗】まとめ

仏壇の開眼供養【浄土真宗】の4つのポイント 解説

浄土真宗のお仏壇開眼供養は、まずこの言葉を使わないことで、他の宗派と違うことが窺えます。

開眼供養の代わりに入仏式や御移徙、御遷仏法要などの言葉で表します。

理解のポイントは、お仏壇に関する法要の目的が魂入れではなく、仏様との繋がりや喜びを確認するところにあります。

慶事としての性格がやや強く、故人が極楽浄土に行ったことを喜ぶ為に執り行われる感じです。

浄土真宗では、南無阿弥陀仏の念仏で即身成仏や極楽浄土行きが約束されますから、魂入れと考え方や捉え方が違うのも当然です。

香典袋に書く御霊前と御仏前の違いもそうですから、四十九日で故人が仏様になると捉える、他の宗派と一線を画すことが分かります。

僧侶はお寺に住む人としてご院家と呼び、魂を祀らないので喉が渇くとは考えず、水を供えないのも独自の考えを持つ宗派らしいところです。

極めつけはお仏壇に位牌を置かないことで、独自の考えで教えを説くという確固たる信念すら感じさせます。

実際のところは、地域や菩提寺によって位牌を置くことはありますし、そこは特に厳しくなく自由度が高いです。

浄土真宗の僧侶は、差別なく仏教の教えを伝えたいという親鸞聖人の考えにより、普通の格好で生活をしたりお肉やお魚を食べていました。

他の宗派は生活や食事の決まりが厳しかったので、親鸞聖人の教えは相対的に自由度が高く、様々な考え方が受け入れられる宗派の印象が強いです。

ルーツが同じで名前が似ている浄土宗は、1文字違うだけで大変厳しく、僧侶には徹底的な禁欲が課せられていました。

今でこそ戒律はやさしくなっていますが、比べて見ればまだまだ自由度に差があります。

親鸞聖人は、僧侶の生活の自由度の高さからも、懐が深くて小さな間違いも受け入れる人物像を想像させます。

法要において間違いは避ける必要がありますし、許してくれるはずと相手に甘えるのは駄目ですが、浄土真宗なら大抵のことは許容されるのも事実です。

それでも、決まりや注意点を覚えて法要を執り行ったり参列するのがマナーですから、独自の概念や考え方を知って学ぶことが大切でしょう。